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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

ポッドキャスト放送後記 ラ・ラ・ランド

 今回の投稿はポッドキャスト版の『アメリカンに映画を観る!』を一か月ほど前に更新していたので、そのお知らせと放送後記なるものです。

 

(新)アメリカンに映画を観る!

(新)アメリカンに映画を観る!

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 今回は大ヒット中のミュージカル映画ラ・ラ・ランド』の「光と闇」について話しました。「光」の面については、良質な楽曲や、オープニングの長回しシーンなど、見どころがたくさんあるエンターテイメントとして、誰にでも薦められるような作品となっていると思います。同監督の『セッション』(2015)は、ジャズ×スポ根的映画であったため、大変な傑作だと個人的には思う一方、誰にでも薦められるような作品ではなかったのと対照的です。

 しかしその一方で、後半、いささか大げさに「闇」と題して本作について論じたのは、やはりライアン・ゴズリング演じるセブのジャズに対する考え方、簡略に言えば彼の音楽観に違和感を感じる人が少なからずいるのかちゃんと説明しておきたかったからです。もちろん、菊池成孔氏の映画評(第一弾:http://realsound.jp/movie/2017/03/post-4278.html

、第二弾:    )にて論じられていること以上のことを私は到底指摘出来ていませんが(至極当然のことですが)、ただ文体や内容がやや難しいだと思いますし、もう少しかみ砕いて説明することも大事かなと思います。

 結局のところ、私自身が一番違和感を覚えたのが、「純粋なものとしてのジャズ」をセブが必死に守ろうとしているというところでした。そもそも、白人であるセブが、黒人音楽であるジャズ(とは言えどそんな単純な話でもありませんが)を保全しようとすること自体、どこかいびつだという議論は成り立ちうるでしょう。ですが、純粋なジャズと言ってもそれは一体何なのか、そのようなものがそもそも存在するのかという疑問は残ります。懸命に昔のスタイルのジャズを残そうとしても、それを聞いてあげようとする人間がいなくなってしまえば、元も子もない訳です。(その点に関してはむしろ、ジョン・レジェンド演じるキースの言う通りです)

 セブの愛するジャズ自体、様々な変化を経て到達した一つの点にしか過ぎない訳で、そこからまた新しいジャズが生まれ、今に至る訳ですから、変化は不可欠であると共に、また面白いものが生まれるきっかけとなっていく訳です。上手く変化と折り合いをつけることが出来ないところに、どこかセブの頑固さや、むしろジャズの首を絞めてしまっているところがあるのかもしれません。

 ちなみに、ポッドキャストの中で他の点にもツッコミを入れていますが、あくまでもそれは一種の指摘なのであって、評価自体に影響を及ぼしたかというとそれはまた別問題だと自分では捉えています。あくまでもこの映画が好きか嫌いかというのは、客観的な論考に基づくものでは必ずしもないと思っているので。

 

 

ローグワン感想

 2015年から続くスターウォーズ祭り(?)は、今日、今年度最高潮を迎えたと言ってもいいかもしれない。『ローグワン/スター・ウォーズ・ストーリー』の上映初日である。

 早速午前9時代の上映に行った。去年も似たようなことを言っていたかもしれないが、自分としては結構満足のいく一本だった。今年のベストを一本だけ選ぶとすれば、ほぼためらうことなく『この世界の片隅に』になるが、『ローグワン』も結構上位に入ると思う。

 まだ観てない人も多いと思うので、直接内容に触れることなく上っ面の感想だけ書くが、これはSF冒険活劇というよりも、「戦争映画」だと思う。この見方は、そもそも監督が言っていることだ。

collider.com

Gareth Edwards on Filming Rogue One Like a Documentary | Collider

せっかく新しい映画を作るなら、旧作の要素は継承しつつ、監督なりのひねりがないとあまり意味がないと僕は思っているので、この判断は正しかったと思う。

  一応エピソード3では、ジェダイの粛清が起こっていて、生き残ったジェダイはオビ・ワン=ケノービとヨーダのみという旧3部作の大前提があるので、急にジェダイとシスがまだ大量に残っていたという設定をでっちあげてチャンバラさせる訳にも行かないし。

 もちろん本作はエピソード3と4との間に位置するので、達成しようとするミッションがどうなるかは皆もちろん知っている訳だが、それでも最後はびっくりさせられた。その点に関しては劇場で確認してください笑

 

 

ポッドキャスト予定告知~エクスマキナ、来るべきポケモンGO、アメリカ政治を予言したおバカ映画

久々にポッドキャストを更新しようと思います。この先数日で更新を予定しております。

現時点で話す予定の内容は、そろそろ関西圏でも上映が終わりそうなSFスリラー『エクス・マキナ』の解説、いつになったら来てくれるのか分からないポケモンGOと、アメリカ文化、社会との関連、そして、トランプ氏が共和党候補確実となってしまった現実を、不運にも予言してしまったと話題の映画についても話そうと思います。どうぞよろしくお願いします。

 

映画Fake感想(ネタバレなし)

 森達也監督の『FAKE』(2016年)を観てきた。ネタバレなしでは、あまり突っ込んだ議論は出来ないので、あくまでも軽い感想に留めておく。

 とんでもない映画である。

 個人的にドキュメンタリー映画を敢えて好んで見るようなことはしないのだが、2年以上前にゴーストライター騒動で話題になった佐村河内守をカメラに収め続けた、しかも衝撃のラスト12分がパンチラインとなっていたドキュメンタリー映画として話題になっていたので、映画館に足を運んだ。

 「コメディ」として見ていた評者もいたように、たしかにくすっと笑えるシーンは少なくない。夕飯のおかずに全く手を付けず大好きな豆乳をただただ飲むという滑稽な場面や、所々で挿入される猫の愛らしい表情には笑ってしまった。

 そんなコミカルなシーンはあったものの、最後まで観てみると、判断を綺麗に下させてくれない作品になっている。軽く数えても、主張点が3,4回は反転させられていたように思う。

 その展開に驚かされた一方で、これをまともに純粋なドキュメンタリーと捉える視点も森監督のやろうとしていることとまた別の話だろう。

 自分もその頃はツイッターでよく友人が佐村河内守ネタ投稿をリツイートしていて、それとなく現状の認識はしていたつもりだが、実際この映画を観てみると、例えばフジテレビのバラエティ番組や、週刊誌の取り上げ方には辟易としてしまう。そもそも、ネット上の大喜利に喜々として乗っかかり、少しでも他人のタイムラインを風刺でもって盛り上げようとした人間の何割が彼の手掛けた音楽を知っていたんだろうか。僕自身もこのスキャンダル以前はほとんど知らなかった。

 さらに、ゴーストライター問題と、耳が聞こえないフリをしていたという問題に対して、同じ論じ方をするのはおかしい気もする。二重の悪事を働いていた、という観点から批判していたのだろうとは思うが、後者に至っては、いわゆる耳の聞こえる人/聞こえない人の二元論で話を考えようとするから話がおかしくなってしまう。じゃあその狭間にある状態の人たちはどうなるのか、世間が聴覚障害についてあまり詳しくないんじゃないか(例えばメガネを掛けている人のことを視覚に障害があると、まず考えない一方、補聴器を装着している人はその人の聴覚について少し意識することがありえるという非対称性があると個人的には思う)と思った。

 余談になるが、最近、週刊文春がスクープを連発していて、停滞ぎみなジャーナリズムにまた新しい風を吹かせていると思っていたが(ゴーストライター問題もそのスクープの一つ)、そのスクープで、日本国民が全体として救われているのか、と言われると違和感しか残らない(直近の話題で言うと、舛添を引き摺り下ろした結果、さらなる税金の大いなる無駄遣いが生じた。本当にバカを見たのは誰なのか、都民は少し考えた方がいいんじゃないか。まあ一連のスクープのおかげで文春は売れるようになっているのだが)。文春には元気に頑張ってほしいとは思う一方で、世間がそれにどう反応していくかは、一人一人がしっかりと頭を冷やして考えないといけないのかなと思った次第。

レヴェナント 元ネタ集

 前回のポッドキャストでリンク貼りますと言っていたが、まだ貼っていなかったので、以下に掲載しておきます。

 

The Revenant by Tarkovsky on Vimeo

 

この動画を見れば分かるように、本作というのはオマージュ満載なのだ。しかし、コメント欄を見ると、それが果たしてオマージュなのか、あるいはパクリなのか、とちょっとした議論になっている。最近レッド・ツェッペリンの代表曲『天国への階段』がパクリだとして訴訟させていたが、あんまり意味のないような気もする。上手く自分で消化出来ていない映画は、いくら良い映画から取ったところで面白くないし。 

マッドマックス解説・分析 ポッドキャスト抄録

 『アメリカンに映画を観る!』のポッドキャスト版(→

(新)アメリカンに映画を観る!)の第一回で触れた、『マッドマックス:怒りのデス・ロード』についての記事に残しておこうと思っていたが、随分経ってしまっている。今度新たなエピソードをアップすると、直近の15回までしか反映されないRSSなので、ブログの方にしか残らないことになってしまう。という訳で、軽くポッドキャストで話した論点をまとめておきたい。

www.youtube.com

 個人的に当作で注目したのは、もちろんフェミニズム的から論じることもそうだが、「赤と青」だった。目を見張るようなアクションシーンの数々で見かけるこの真っ赤な炎が印象的だった人も少なくないかもしれない。

 

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http://screenrant.com/wp-content/uploads/Mad-Max-Fury-Road-explosion.jpg

 

 このかなり赤い炎と絡めて言及しておきたいのが、Capable ケーパブルの真っ赤な髪だ。

 

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http://66.media.tumblr.com/8c69f8cc14f986ef333e7683a1d8f024/tumblr_nqsfe17QLK1rylr5to1_400.gif

 どっちもこれでもかと言うほど赤い。それがどうしたと思われるだろうが、ポッドキャストで話した内容に戻ると、これはイモータン・ジョーの教義と関係してくると言える。つまり、"I live, I die, I live again" 生きて死にまた生き返ると豪語する、瀕死のウォーボーイ、ナックスが言うように、「現世がたとえ辛くとも、立派なウォーボーイとしてイモータン・ジョーに仕えることで来世では報われる」というイモータン・ジョーなりのカルト的な教義(このテーゼ自体は宗教そのものに通底するものではあるが、何故イモータン・ジョーなのかという質問には答えられない)をそのまま受け入れてしまっている。

 このドグマと赤色を繋ぐものとは、すなわち不死鳥のイメージ(=再び息吹を取り戻す生のイメージ)なのである。死を確信した不死鳥こと火の鳥は、炎に焼かれることでまた新たな生を得る。そして、ナックスは壮絶な戦いの中で、逆説的に自分が生きていることを身でもって体験する。

 それと対照的なのは、夜になった際、スクリーンを覆う青色だ。これはまさしく、死のイメージであって、何も育たない不毛の土地にマックスたちはたどり着く。敵たちも、まあなかなか陰惨なことになる。ちなみに、盲目になり、目かくしをして銃を乱射していた彼

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http://madmaxmovies.com/forum/download/file.php?id=3381

が叫んでいたセリフは「俺は正義の天秤だ!」と言っていて、要は自分は正義の女神なんだと言っている(正義の女神は、公平性を保つという意味で目隠しをしている)。かなり皮肉なのは言わずもがなである。

 さて、本題に戻るが、そういった青=死のイメージと対置させると、先ほども述べたが赤はまさしく不死鳥のイメージ、さらに言うならば敗者復活戦のイメージすら思わせる。ナックスの語源はNux, Nothingであって、彼は取るにたらない、無の存在であって、イモータン・ジョーにとってはただの捨て駒だ。しかし、あれだけいる女性集団の中から一人、彼を一人の人間として接しようとする女性がいた。ケーパブル(有能)である。

 何やかんやで、ナックスがイモータン・ジョーの教義から脱却し、彼に反逆しようとするのは、まさしく彼なりの恋を見つけたからだろうとは思うのだが、理由はともかく、真っ赤な髪のケーパブルと出会うことで、敗者復活戦の機会を得る。

 最後に補足しておくと、マックスがフュリオーサに輸血するシーンがあるが、あれもまさしく深紅の生命を彼女に注入することであって、それゆえ不死鳥のごとく彼女は息を吹き返すと解釈できるのではないか。色に着目してもまあ言えることは多少はあったな、という話です。

 

ポッドキャスト ライブ配信します ”アメリカ映画と社会の今”

 3月分の配信が滞っていたので、今月はその分も兼ねてライブ配信をしたいと思います。

 今回は、『ヘイトフル・エイト』や『バットマンvsスーパーマン』などの作品から、アメリカ大統領選、BABYMETALの全米上陸の件に関してなど、アメリカ絡みの様々なことに関して考えていこうと思います。配信は4月16日(土)の5時半~7時を予定しています。

 質問、要望ございましたら、americannieiga@gmail.com、あるいはtwitterの@ykondo457(「アメリカンに映画を観る!」アカウント)までにお寄せ下さい、よろしくお願いします。

 なお、ライブ配信の音声は編集した上で、ポッドキャストとして後日アップロードします。