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アメリカンに映画を観る!--- 洋画見聞録

主にアメリカ映画・文化について書きます。たまに関係なさそうな話題も。

スピルバーグの『激突!』の意味

 『ブリッジ・オブ・スパイ』が公開中だからなのか、気づいたらスピルバーグ出世作『激突!』を借りていたので、観てみた。

 ストーリーは至ってシンプルで、先を急ぐセールスマンが追い抜いたトレーラーに執拗に追いかけられ、命まで狙われるというものだ。

 ガレージの暗闇の中からバックで車道に出るシーンから、主人公デイビッド・マンの、夕日に映える横顔のシーンまで90分足らずである。

 

 既に指摘されていることではあるが、David Mannは、まさしく平均的男性、ないし人間の象徴であって、それが運転席がよく見えないトレーラーに追いかけまわさせる話なのだから、この映画における重要な構図は人間 対 機械 (man vs machine)だろう。

    カメラは終始デイビットの言動にフォーカスしていて、車の独立した意志は強調されない一方で、トレーラーの運転手の顔は全編を通じて一度も出てこない。スピルバーグ本人も、トレーラーの車種は、車が人間の顔に似ているかどうかで決めたらしく、ここに「自動車に乗る人間」と「人間を乗り回す自動車」という二項対立が明示されている。

 そして、その構図はクライマックスで顕著だろう。デイビッドは、自らの名前が刻んであるスーツケースをアクセルの上に置き、ギリギリのタイミングで車内から飛び出す。トレーラーと彼の乗用車が正面衝突する様は、まさしく人間対機械の一騎打ち、原題のduel,決闘なのである。

 なお、この決闘とはまさしく西部劇におけるそれである。ラストの勝負の場は、何も周りにないような乾ききった山で、互いの銃を引き抜いて早打ちするように、猛スピードで両者は”激突!”する。

 崖へと真っ逆さまに落ちていくトレーラーだが、その中には運転手の姿が見当たらない。となると、まさしく彼はトレーラーの一部、トレーラーの亡霊だったのだろう。そして、『フランケンシュタイン』よろしく、車というモンスターを作り上げた人間がどうにか、そのモンスターを退治したということになるのだ。

『クリード』は成功作なのか?(解説・分析)ポッドキャストEp.05

ポッドキャストの第五回をアップロードしました。ロッキーシリーズの事実上続編の『クリード』について、未来世紀サクライの韓くんと話しました。

前編

今回は新たなゲストをお呼びして、『ロッキー』シリーズのリブート作品である『クリード』について論評しました。前編はネタバレなしです。
シリーズ過去作も踏まえた上で、本作の何が新しいのか、話しました。

mrjohnnydepp.seesaa.net

後編

クリード論、後編です。結末についても話しています。
ロッキーシリーズに伺える「死の匂い」とは?
結末をどう解釈すればいい?
クリード2・3、どうなる?

mrjohnnydepp.seesaa.net

ポッドキャストで話していた『ロッキー・ザ・ファイナル』のエンドクレジットのシーン。いつかやってみたいものです。


Rocky Balboa End Credits

 

スターウォーズ批評を批評する!後編(ポッドキャスト・言及リスト)

 年末にアップロードしたスターウォーズ批評の批評についてのポッドキャストの後編です。

 本編はこちら

 https://itunes.apple.com/jp/podcast/epi.04-hou-sutau-ozuno-pi/id1065481891?i=359863817&mt=2

 (前編はこちら)

ykondo57.hatenablog.com

要点としては、 

スターキラーはスカイウォーカー?
あの衝撃的な展開は実はあのシーンと重なる?
FN-2187の秘密とは?

ということですが、最後のフィンのナンバーの謎に関しましては町山さんが

有料音声の中で解説されているようです。ただ、既に指摘されている論評はいくつか見つかりました。

例えば英語ではこの記事が興味深いです

www.telegraph.co.uk

(Telegraph紙の記事:FN-2187:なぜジョン・ボイエガのストームトルーパーの番号がスターウォーズの鍵を握っているのか)

日本語では清水節氏のコラムに詳しいです

eiga.com

 やはりライムスター宇多丸氏の映画批評もかなり参考になります

TBS RADIO ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル

 

americannieiga@gmail.comにまで次回のトピックのリクエスト、今回あるいはバックナンバーへのコメント等、お待ちしております。どうぞよろしくお願い致します。

 

 

スターウォーズ批評を批評する!前編(ポッドキャスト・言及リスト)

 年末にスターウォーズ最新作の批評について批評(?)しましたので、言及したもののリストを含めた後記を載せておきます。

 本編はこちらからどうぞ→

 

https://itunes.apple.com/jp/podcast/epi.04-qian-sutau-ozu-pi-pingwo/id1065481891?i=359816744&mt=2&at=10l8JW&ct=hatenablog (前編)

mrjohnnydepp.seesaa.net

 

 

(前編) 

SW最新作の批評、評価について考えていきます。
日本と海外とでの評価の違いは?称賛のポイントとは?
悪役=現代的テロリスト,厨二病とはどういうこと?

 

 今聞いている中でもとりわけ良質なポッドキャスト

 A Cultural History Of ‘Star Wars’ (So Far) by The Cracked Podcast | Free Listening on  SoundCloud

    事前予想の一例

「神話的な物語群」 思想家・内田樹さん、SWを語る:朝日新聞デジタル

   ポッドキャストでも言及した、海外での映画の反応を見るには絶好のサイト

 IMDb  

 Star Wars: The Force Awakens (2015) - IMDb

 Rotten Tomatoes

 http://www.rottentomatoes.com/m/star_wars_episode_vii_the_force_awakens/

   yahoo映画

 スター・ウォーズ/フォースの覚醒 - 作品 - Yahoo!映画

 海外での批評

www.slate.com

 TBSの文化系トークラジオ

 

www.tbsradio.jp

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何故私たちは友達になれないの?Why Can't We Be Friends?

最近、TBSラジオ番組ばかり聞いている毎日で、菊池成孔の粋な夜電波のバックナンバーを今日聞いていたら、そのラストナンバーがこの曲だった。

www.youtube.com

 

 題名は何となく知っていたけれど、この放送回がパリでの同時多発テロを受けてのものであったという文脈を踏まえて聞いてみると、より一層感慨深い曲であった。

 湿っぽい曲かと言われると決してそうではなく、明るい曲調でWhy can't we be friends? (何故私たちは友達になれないの?≒ねえ、友だちになろうよ、くらいのニュアンス)というメッセージが何度も何度も歌われる訳でどこか切ない気分になる一曲だ。

 

 

このポッドキャストが面白い 東京ポッド許可局 

 最近ほぼ日課として行っているのは、ポッドキャストを空き時間にだらだら聞くことだ。ポッドキャストは全て無料(有料配信の音声はポッドキャストとして認定してもらえない)だし、ボリュームさえ絞っておけば、長時間聞いていても疲れない。テレビやPCだと目が疲れたりしてそうもいかなかったりする。

 今回紹介したいのは、TBSラジオの『東京ポッド許可局』。ミュージシャン・俳優でもある芸人マキタスポーツ、大学院の博士課程まで行った「学者芸人」サンキュータツオ、時事ネタを得意とする「時事芸人」プチ鹿島の三人が繰り広げるトークは、他愛もないフリートークのように思えて、結構知的ではあるが、堅苦しく議論するような「お勉強」の番組でもないというその塩梅が特徴だ。

 「力道山化する日本論」「アンチ論」「カロリーオフ論」といった、~論と銘打ったメインセッションから始まり、バラエティに富むコーナーを経てエンディングというワンセットで、1時間程度。剣道やプロレスの話から、ラジオの将来まで、多岐にわたるトピックを、真剣なものであってもふざけて語る、あるいは、ふざけたものであってもシリアスに語るその姿勢が大変楽しい。

 (一応映画ブログなので言っておきますが、映画の話もたまにされています)

 TBS RADIO TBSラジオ 東京ポッド許可局

なんてクリスマス映画だ!『34丁目の奇跡』

 (ポッドキャストでクリスマス映画について話すと告知していましたが、ブログ形式で一本ずつ紹介する方が妥当だと考えました、すみません)

 町山氏のブログや映画塾にも詳しいが、『34丁目の奇跡』という定番のクリスマス映画がある。

 ニューヨーク・有名デパート、メイシーズが催すクリスマスニューヨーク。恒例の感謝祭のパレードに、サンタクロースおじさん役として雇われた、見事な白髪白髭を持った老人クリス・クリングル。ところが彼が、“私は本当に正真正銘のサンタクロースなのです”と言い出したことから、周囲は大騒ぎに。サンタが本当に実在するか否かをめぐる一大論争は、とうとう法廷の場にまで持ち込まれていくのだが……?(WOWOWサイトより http://st.wowow.co.jp/detail/2376)

 これは一見「子ども」向けの心温まる映画だし、一見というか、本当に感動するような傑作映画なのだ。

 しかし、「子ども」を見る「大人」の視点からこの映画を考えるのも興味深いだろう。というのも、よく見ると、大人の事情に”まみれた”大変リアリスティックな映画なのだ。

(以下ネタバレの要素もあります)

  サンタは実在しないという現実的なことを叩き込まれている少女が登場すること自体がまず驚きだ。さらに70年近くも前の映画なので、母親がシングルマザーであることもかなりインパクトがあるように思える。実際、彼女は夫に浮気され、離婚されてしまったことに深く傷ついている様子が描かれる。

 さらに、メイシ―がクリスマスに便乗しておもちゃを売りさばこうとする大人の事情が出てくる。しかし、「良心的」なサンタ役のクリス・クリングルは子供のことを思って、彼らの欲しいおもちゃがないと知るや、他のデパートを紹介する。本当は、サンタ役としてメイシ―で親を買い物させるのが目的なのにもかかわらずである。その方針が良心的な対応であると大うけしたせいで、結局ライバルのデパートも真似しだす。結局サンタの良心が商業主義という火に油を注ぐこととなってしまっているという皮肉が提示されてしまっている。

 クリスは、今やクリスマスの精神が人々から欠落してしまっていることを憂うのだが、基本クリスマスと商業主義は相互依存の関係にあることを、メイシ―のことを悪く描かないことで却って示してしまっている訳だ。

 さらに、サンタの描写が実はリアリズムなのも面白い。単純に技術的なことだと考えるのは容易だが、この演出により本当に彼がサンタであったかどうかは実証されないままなのだ。よくあるクリスマス映画の定型から言えば、ひげがひとりでに生えたり、そりで空を飛んでいたり、超自然的現象でもっと、サンタがサンタであることが証明される。しかし本作ではサンタが裁判にかけられるという生々しい(?)展開を迎えるのだし、自力でサンタが実在することを証明する術が実は全くないのである。

 加えて、裁判官も選挙のために民衆の前ではいい顔をしなければいけないという大人の事情がしつこく描かれるし、どうも本作に登場する大人たちは本当にサンタを信じていると子供の前で言うものの、いないのは知っているが、信じたかっただけであることがラストシーンでよくわかる。

 本作で示される、サンタの実在性とは、「いないものを信じる」ことにあると集約できよう。つまり、本作のラストで、少女が求めていた家の中に杖があったことは、実際のところ、サンタの実在性をクリアに証明するものには必ずしもならない。

 町山氏は、本作を宗教性を排した映画だと評していたが、敢えてメタファーとしてこの考えを読み込むとすれば、「必ずしも証明できないものを信じる」ことはすなわちキリスト教的な宗教心であると解釈することは出来よう。目に見えないものを信じるという力強いメッセージは、却ってサンタがやはり不在の存在であることをより強調する、「サンタなき現実世界」の鏡となっているのかもしれない。